昨日のブログについて

昨日私が書いたブログに対し、日本から2名、"差別的な文章"という指摘のメールを、そしてアメリカ在住の2名の方から「自分にも似た経験を何度かしています」「日米のサービス業の違いについて、、、」といった内容のメールを頂きました。 ポジティブにしろネガティブにしろ、無関心ではいられないとメールを下さった方々に感謝致します。 このブログはケトルベル関連の話や情報提供或いは個人の海外生活日記のような形を取り、基本的に自由気ままに書いていますが、一般公開している以上自分の発言した事には責任を持ちたいと思います。

まず、2名の方からネガティブなメールを頂いたという事は、実際にはもっと沢山の方が私の文章に不快を感じたのだと思います。 その方々には心から謝罪を致します。 また、真面目なテーマで真面目に討論する事は良い事であり又大事な事だと思うので、今後もご意見があれば是非メールを下さい。 大事な内容だと思えばブログ上で討論する事も時には良いと思います。ただし宗教と政治と人種問題に関しては、私自身白人社会の中の"アジア人"という立場で少々強い個人意見を持っているので、JWなど含め本当に一部の人としか話し合いません。 親友のハイディとでさえ、この3点に関しては真っ向から対立するので互いに避けています。避けると言うのは互いに逃げているという意味ではなく、互いの「生まれた時から"その中"で育ってきた宗教観や文化をリスペクトする」と言う意味です。


ニューヨークには身体的ハンデを抱える人が〜多分日本の方が想像する以上に〜本当に沢山います。 マイカーで米国縦断の旅をしたJWによると、地方にはこのような人が更に多くいるそうです。
このような"身体的ハンデを抱える人"は我が家のマンションの前にいつも居り、郵便局に居り、花屋に居り、スタバで隣の席に座っています。普通に多くいるので私達はこの人達を特別扱いせず自分達と同じ様に接し共存しています。 だから"障害者の方”といった敬語で呼ぶ事もなく普通に”障害を持った人"と言います。
私のジムでもつい最近まで居たフィットネスマネージャーは右の腕が普通の人の肘までの長さしかなく指も3本しかありませんでしたが、左腕だけでケトルもバーベルもプルアップも行い、仲間達と「これで右腕があったら君は今頃ビースト(怪物並に強い)〜だったな」とよく本人と冗談を言っていました。「健常者と違う可哀相な人」と思っていたらこのような事は言えません。「健康で強く美しいボディーを目指す」人が多く集まるフィットネスジムの仕事を自分で選んだ彼は、苦しさや悔しさやハンデを乗り越えて自分に挑戦する為にこのジムへ来たのでしょう。 だから私達は彼の気持ちや根性をリスペクトし、あえて特別扱い(障害者扱い)は当然しません。 そしてこの基本的な考え方は昨日の”ろうあ”の人に対しても同じです。


昨日のブログでは幾つか説明すべきポイントがあるのですが、まず言葉について。
実は私は”言葉の話せない人” を日本語で2つ言葉を覚えていましたが、私はこのブログを始めた時にも書いたとおり、私はブログを始めるまで17年日本語から殆ど遠ざかっており、日常であまり使用しない言葉はどんどん忘れていってしまいます。 ”ろうあ”と言う言葉を辞書で確認して昨日書いたのですが、少なくとも私が日本に居た時は特に差別用語でもなかったので、例えば”捻挫した人"と同じ様な感覚で使用しました。 もし、他に表現すべき言葉があったら教えて下さい。 また、”ろうあの方”と書くと、こちらではハンデを持った人(もうこれも障害者の方と書くべきなのか、、、どう書いて良いのか分かりません、、、)〜を敬う言い方は変なの普通にろうあ者と書きました。 ”ろうあ者”だけじゃ何となく呼び捨てっぽい感じがし、捻挫した人を"捻挫君"と呼んでみる感覚で”ろうあ君”と書きましたが、この言葉も差別用語の様に聞こえたとしたら大いに謝罪します。 他にどう表現してよいか分かりませんでした。


昨日のシチュエーションでは店全体の"姿勢"がなっておらず、店のオバサンは昨日書いたとおり、印刷間違いのあるパンフを、謝る代わりに目の前でゴミ箱に投げ捨てるなどひどい対応でした。(私の後ろに並んでいた人も思わず「ひで〜な〜」と言っていた)”ろうあの人”も面倒臭そうにのらりくらりと仕事をし、疲れていたのかもしれませんが、一日仕事をしその途中でこの印刷屋に来て1時間以上待たされている人達も皆同じ様に疲れていた筈です。 そこで若しこのオバサンがきちんと対応し、ろうあの人も彼なりに一生懸命働いていたら私達は誰も文句は言いません。 この街の特徴でもありますが、ここでは仲間であれ他人であれ元ヤンキースの松井君であれ身体にハンデを持っている人であれ、一生懸命頑張っていると見られる人は認められ、応援され、リスペクトされます。
反対にやる気のない人やずるい人や悪意のある人には、セレブであれ、政治家であれ、友達であれ、身体にハンデを持つ人であれ、又、例え上司や教師でもリスペクトはされません。


昨日は待たされていた人は皆イラつき怒っており、「なんで言葉の出来ない人が受付なのだ?!」と囁きあいましたが、これは彼に対する差別意識から発せられたものではなく、常識的に考えておかし過ぎるのではと言う不満です。 私の文章が差別と取られる誤解を招く書き方だったかもしれませんが、私は人(身体的ハンデや人種を含め)を「自分より劣る」という感覚の"差別"をする事はありません。 「やっぱりロシア人は強かった!!!」とか「JWは米国人だから、、、」というのは差別とは違います。上手く説明できなくて申し訳ないのですが。

しつこいようですが身体に障害を持つ人は、必要ない限り"特別な人"という扱い(言葉が悪ければ対応と書き直します)〜を、こちらではしません。 (心に障害を持つ人はまた別の話です)
しかし、必要な時は皆その場でサポート或いは助けます。 足が不自由な人がバスに乗ろうとすれば側に居る人は誰でもすぐに手を貸します。 ベビーカーで坂道を押して登るお母さんが居れば近くを歩いてる人は手伝ってあげます。 雪道で足を取られて転んだ人が居れば、側に人が3人居れば3人とも助け起そうと駆け寄ってくれる事でしょう。身体的ハンデがあろうとなかろうと必要な時に助けようとするのは当たり前の行為です。


日本では同じ様な事が日常的に行われているでしょうか?
私はある時、日本のケトルベルインストラクターの方と二人で東京の地下鉄の駅の階段を下りていました。 すると突然私達の斜め前で階段を下りていたサラリーマン風の人が足を滑らしドスンと転んでしまいました。 私はびっくりして思わず大きな声で「だいじょうぶですか!?」 と、尻もちをついて動けないその人に手を貸そうとしましたが、その時周りには結構人が階段を上り下りしていたのに、この人が転んだのを皆見たのに大丈夫かと声を掛けたのは私一人だけでした。 何故誰もみて見ぬ振りをするのか、声も掛けないのか分からず不思議でした。
この人が障害を持つ人だったら皆手を貸していたのか、、、私には分かりません。
米国には上記のように当たり前に人助けをする人が多い中、上のオバサンのような人も居るので勿論全てを一概に評する事ができないのも事実で、日本にも当然当たり前に人助けする人はいるでしょう。

自分を正当化するつもりはありません。 しかしブログで時折お茶ら気て書いたり昨日のように、怒っていたので読む人がどのように理解するかはあまり考えず勢いで書きましたが、実際には身体的ハンデのある人のサポートや、乳がんエイズ等の病気のキャンペーンのサポートや先日ブログでも書いたハイチ大地震の救援募金活動など自分で参加できる事を真面目に行っています。


右のダブルケトルベルを挙げている写真はカイルという名の、生まれつき障害を持った青年で、両の腕は肘までしかなく、足も膝下はありません。

ですが、少年期からウエイトトレーニングを始め、2005年にはアーノルドフェスティバルでベンチプレス163kgを挙げ世界記録を出しました。(チェーンとベルトを腕に引っ掛けて挙げた)クロスフィットのインスト資格に合格し、昨年念願のジム(クロスフィット)をオープン、現在MMAファイターを目指し頑張っています。
このような"真のファイター"を心から応援しています。 彼は全米トップ100の中のトップ"障害アスリート"の一人で、著書はベストセラーになっています。以前から、いつかブログでも話題にしたいと思っている青年です。

ナゾ